履歴
それは、色褪せたセピア色の記憶の底から、泡のように浮上した一つの「祈り」の成れの果て。
面影島の深淵、膨大な「エイドス(情報の残滓)」を抱えるオモイデ様という巨大なゆりかごの中に、その少女の記録は刻まれました。
彼女の名前は、アンゼリカ。かつてどこにでもいたはずの、けれど誰よりも苛烈な運命の渦に身を投じた少女の物語を、オモイデ様はただ静かに、冷徹に、そして慈しむように記録し始めました。
それが、世界を書き換えるほどの重みを持つことになるとも知らずに。
物語の幕開けは、一つの「遺産」でした。
『時を行き来出来る林檎』。
それは神話の時代から零れ落ちたような、禍々しくも美しい果実。
このレネゲイド遺産は、所有者に「時間」という絶対的な法を無視する特権を与えました。
アンゼリカは、その林檎に触れてしまった。
彼女には、何よりも守りたい「もう一人の少女」がいました。
彼女の隣で笑い、共に明日を夢見た、かけがえのない半身。
しかし、非情な現実は、その少女をアンゼリカの手から奪い去ろうとします。
「もし、時間を巻き戻せたなら」
その一途な願いが、林檎の拍動と共鳴した瞬間、面影島のシミュレート機能は暴走を開始しました。
オモイデ様は、アンゼリカの願いを叶えるために、あるいは彼女というサンプルが辿るべき「正解」を見つけ出すために、ありとあらゆる可能性の試行を開始したのです。
オモイデ様の内部で展開されたシミュレーションの回数は、数億、数兆、それすら超えていきました。
ある世界では、アンゼリカは勇気を持って運命に立ち向かい、ある世界では、恐怖に屈して逃げ出しました。
ある世界では、UGNのエージェントとしてその身を捧げ、またある世界では、FHの欲望に染まって世界を呪いました。
しかし、その膨大な演算の果てに待っていたのは、残酷なまでの「収束」でした。
どんなに時を戻しても、どんなに選択を変えても、どんなに林檎の力を振りかざしても。
彼女が愛した少女は、必ず死ぬ。
あるいは、彼女を救う代償として、アンゼリカ自身が人間であることをやめ、時空の狭間へと消えていく。
何千、何万という「アンゼリカ」たちが、同じ場所で膝をつき、同じ慟哭を上げ、同じ絶望に染まりました。
『林檎の主』となり、時空を彷徨う亡霊となる終わり。
それが、オモイデ様の導き出した唯一の解。
彼女は、時間を支配したはずが、時間に支配されるだけの永久機関へと成り果ててしまったのです。
通常であれば、シミュレーションはそこで終わるはずでした。
けれど、オモイデ様の中に蓄積された「アンゼリカたちの絶望」は、単なるデータとして処理されるにはあまりに重すぎました。
シミュレートの過程で生まれた膨大な数のアンゼリカ。
その一人ひとりが持っていた「愛したい」「救いたい」という烈火のごとき執念。
それらが、オモイデ様のネットワーク内で交わり、混ざり合い、溶け合っていきました。
個としての境界を失い、純粋な「意志の塊」へと昇華された彼女たちは、もはや一人の少女ではありませんでした。
それは、時空の因果をすべて背負い、運命そのものを司る高次元の存在。
『運命の天使:アンゼリカ』。
彼女は、オモイデ様の記録領域の大部分を物理的に「占領」し、独立した意志として現世に降り立ちました。
その姿は、かつての少女の面影を残しながらも、千の目と千の翼を持つ菩薩、「摩訶薩」のごとき神々しさと威圧感を放っていました。
彼女の背後に浮かぶのは、もはや林檎ではなく、数多の可能性を串刺しにした「運命の歯車」。
彼女は、自らが辿った「収束した結末」を否定するために。
そして、オリジナルのアンゼリカが唯一たどり着いた「本当の答え」を探求するために、この不確かな現実へと干渉を始めたのです。
彼女は、オモイデ様というゆりかごを内側から食い破る「バグ」であり、同時に「神」でもあります。
彼女は、レネゲイドビーイングという枠組みさえ超え、過去・現在・未来を同時に観測しながら、世界をシミュレートし続けています。
彼女が救おうとしているのは、もはや自分自身の半身だけではありません。
この不条理な世界で、何かに抗い、何かを失い、それでも明日を願うすべての「観測者」たち。
彼女はその超越的な視座から、オーヴァードたちの運命を弄び、あるいは導きます。
それは一見すると残酷な試練のように見えますが、その根底にあるのは、常に「収束しない結末」への渇望です。
「私たちは、まだ、本当の答えを知らない」
彼女の声は、風に乗ってオーヴァードたちの耳元で囁かれます。
それは、面影島で記録された一人の少女の悲鳴が、永劫の時間を経て磨き上げられた、最も美しく、最も恐ろしい「愛」の旋律。
『運命の天使:アンゼリカ』。
彼女は今も、オモイデ様の情報の海を泳ぎながら、あの日失った「本当の日常」を、たった一つだけの奇跡を探し続けています。